2021年5月24日月曜日

デイリーほっと通信

5月16日(日)

いつもありがとうございます。

ほっと通信。

読んでいただいて、ありがとうございます。

このほっと通信をどれほどの方が読んでくださっているでしょうか。

有難いと思っています。ありがとうございます。

愛情の反対は、無関心。

ぜひ、リアクションを頂けますと、とても励みになります。第1話「旅人の話」

ある物語をご紹介いたします。

私が持っているブックに書いてある内容ですが、

友人からも流れてきましたので、有名なものらしく、きようゆうしたいと思い、書きます。

友人に許可をいただき、そのまま載せています。

長いですが・・お時間があるときに、どうぞお読みください。

<旅人>

ある町がありました。

一人の旅人がその町にやってきました。

町の入り口の門のところに一人の老人が座っていました。

旅人は聞きます。

「おじいさん、この町はどんな町?」

おじいさんは聞きます。

「あなたが今までいた町はどんな町でしたか?」

旅人は答えました。

「いやあ、前にいた町は嫌な人ばかりでろくな町じゃなかったよ」

「そうですか、この町もあなたが前にいた町と同じ町です」

また別の日に旅人が来る。

「おじいさん、この町はいったいどんな町ですか?」

おじいさんは聞く。

「あなたがこの前にいた町はどんな町でしたか?」

「私が今までいた町は、すばらしい町で、人々は親切で、あんなによい町はありませんでした」

「そうですか、この町もあなたが前にいた町と同じ町です」

と答える。

これは逸話です。

言い方はいろいろあるようですが、昔からある有名な話です。

二人の旅人が来た町は同じなんです。

結局この逸話の言いたいことは何か。

環境というものは「その人の心が決める」ということです。

我々が何のために学ぶのかというのは、環境をよりよく作るために学んでいるわけですね。

結局環境を作るのはその人なんですね。

その人の心が環境を決める。

環境に左右されるのではなく、環境を作れる人間になりたいものです。

最後に、安岡正篤先生の言葉を紹介します。

「環境が人を作るということに捉われてしまえば、人間は単なる物、単なる機械になってしまう。

人は環境を作るからして、そこに人間の人間たる所以がある、自由がある。 即ち主体性、創造性がある。

だから人物が偉大であればあるほど、立派な環境を作る。人間が出来ないと環境に支配される」

(「安岡正篤一日一言」4月13日)

☆コメント

環境が全く同じでも、そこに住む人、そこで働く人、そこにいる人の考え方、受け止め方で、いい場所にも、悪い場所にもなるということですね!

同じ事例で、東京都小平市の小学校教員向けの朝会資料を共有します。

朝会の話

「地獄と極楽の違いは?」

今日は、私が子供の時に聞いたお話をします。

ある人が、地獄とはどんなところか見に行ったそうです。(「地獄」というカードを見せ る)みなさんはどんなところか想像できますか。

すごく恐いところというふうに思いますよね。

行ってみると、ちょうど食事の時間でした。

なんと、テーブルには豪華なおいしそうな 食べ物がたくさん並んでいます。

そこにやせ細った地獄の人たちが入ってきて席に着きました。

見ると、長いお箸が置いてあり、1mくらいあります(お箸をみせる)。

地獄では、 それを使って食べなくてはならない決まりだそうです。

地獄の人たちは、その長いお箸を使って、食べ物を自分の口に運ぼうとします。

しかし、 お箸が長すぎて、食べ物を口に入れることができません。

みんな口に入れようと必死になっているのですが、一口も食べられずに苦しんでいます。

そして食事の時間が終わりになってしまいました。

誰一人食事をとることができませんでした。

次に極楽に行ってみました。(「極楽」という表示を見せる)

極楽というのは、アジア・ 日本的な言い方で、ヨーロッパ・外国では天国という人もいますね。

さて、極楽も食事の 時間でした。

ここも地獄と同じように豪華な食事 がいっぱい並んでいます。

そこに楽しそうな表情 で、すごく健康そうな人たちが入ってきて席に着 きました。

そして地獄と同じように、長いお箸を 使って食べ始めました。

ところが、極楽では、自 分で食べようとするのではなく、お向かいの相手に食べさせてあげるのです。

食べさせてもらった 人は、お返しに相手の口に食べ物を運んであげます。

こうして、お互いに食べさせあうことで、楽 しく食事をしているのです。

みなさんは地獄と極楽の違いがわかりましたか。

自分のことだけを考えて行動すると地獄。

他人のことを思いやって行動すると極楽。

地獄と極楽、それはどこか知らない遠いところにあるのではなく、私たちの心のなかにあるのかもしれません。

極楽にするためには、どんな行動をしたらいいかクラスでも考えてみてください。

きょうの朝会の話を終わります。

(裏面に「先生方へ」があります)

<先生方へ>

きょうの話は仏教説話として有名で、先生方もどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。

またこの話を、子どもたちに話した先生がいるかもしれませんね。

私は、平成 19年6月に小平第六小で、平成23年5月には小平第十四小でこの話をしています。

さて6月は、東京都教育委員会が定める「ふれあい月間」、いじめ防止が中心のテーマです。

いじめ防止をするには、各学級の基盤がしっかりしていなくてはなりません。

相手のことを考えて行動できる子が学級に増えれば、自然といじめはなくなっていきます。

今月は各学級で、いじめをなくすにはどうすればいいかを考えさせることと思います。

そのときにきょうの話を活用してください。

私は担任時代、「情けは人の為ならず」という言葉を教えるときに、この話をよくしました。

「情けは人の為にならない」ということではなく、人に情けをかけていけば、巡り巡って自分に戻ってくるんだよ、そんなことを教えていました。

仏教では「因果」ということを教えます。

原因があれば結果があるということです。

この話も、「因果」ということをわからせるいい話だと思います。

学年・学級でも実態に合 わせて、補足しておいていただけるとありがたいです。

6月も半ばです。

湿気と気温の上昇で、新年度の疲れが出てくる頃です。

調子が悪いときは無理をせずに休むことも大切です。

時間を上手に使うことを常に意識していきましょう。

<資 料>

トマトはトマトの種からしか実らない(こんな話もしてみたらどうでしょうか)

キュウリを収穫したければ、キュウリの種をまきます。

トマトを収穫したければ、トマトの種をまきます。

トマトを収穫したいのに、キュウリの種をまく人はいません。

キュウリの種からキュウリが育ち、トマトの種からトマトが育つ。

これは自然の法則です。

ところが、この自然の法則を理解しない人がいます。

「勉強はしたくないけれど、試験には合格したい」

「私には人のことを思いやる余裕はないが、人は私に親切にすべきだ」

キュウリの種をまいておきながら、トマトの収穫を願っているようなものです。

勉強をするから、試験に合格できるのです。

人を思いやることができるから、人から親切を受けられるのです。

自然はキュウリの種からトマトを実らせることはありません。

よい結果が得たければ、よい種をまくことが必要です。

(私の友人からのメッセージです)

 

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